ヴェルディ戦後の騒動について考える

4-2の快勝。心地よい気分のまま、試合終了のホイッスルが鳴る。念願のナビスコ決勝トーナメント進出も決定。タイトルへの架け橋はどうにかつながった。歓喜に満ちあふれるアウェイゴール裏は、まるで優勝でも決まったかの大騒ぎだ。昨年、いやここ数年の試合でこんな光景があっただろうか。

思い出すのはいっきに4年前、同じ国立でのナビスコ優勝のことだ。もちろんあのときの方が激しかったが、それ以後はいくら試合に勝ってうれしくてもここまで居残って歌いまくることはなかったかもしれない。
満面笑顔の青赤軍団荒れ狂う。もちろん自分もその一人である。当然ながらホーム緑側のゴール裏は大多数が早々と退散し、閑散としていた。

そんなタイミングで事件は起こった。ゴール裏とバクスタとの境界柵付近で緑ユニを着たヴェルディサポがエキサイトしている。見た時点ではすでに警備員に押さえられていた。東京サポもかなりの数がその現場周辺に集まった。

ダービーに3連敗し、おまけに勝利の凱歌をあげるアウェイゴール裏に怒りを覚えたにちがいない。「帰れ帰れっ」「何しにきたんだ」の相手へのヤジと、「そこから離れろっ」「煽るんじゃねーぞ」と制止する声が入り交じる。5〜10分ほどの緊張した状態の後、なんとか治まった。

これとはまた別に、ゴール裏のメイン寄りでは黒服の男らが乱入してきた。こちらも小競り合いののちに警備員に押さえられてスタンドの外へと連れていかれた様子。やれやれ帰ろうとスタンドから外へ出ると、通路の隅で黒服男が警官を交えて事情聴取を受けていた。

この騒動ですっかり勝利の喜びがすっ飛んでしまった。後味悪し。ついさっきまでの浮かれた気分はどこへやらだ。
                          ☆
スポーツはすべてエキサイティングだが、そのなかでもサッカーはとくにエキサイト性が高い。よく「サッカーは戦争だ」といわれる。その使い古された表現をその昔、三菱ダイヤモンドサッカーを観ていたころには「そうだそうだ」と首を縦に振っていたものだった。でも今は違う考えだ。

よーく考えてみよう、ひとつのスポーツに過ぎないサッカー「ごとき」が、国を挙げて人を殺し合う戦争ほど非生産的かつ非人間的な行為と同じ、あるいは似ているわけがないじゃないか。そんなものだとしたら、これだけ多くの人を魅了し、感動させることなどあり得ないことだ。

サポーターは愛するクラブをまるでナショナリズムのごとく心酔・信奉し、相手クラブに対し徹底的に排他的な一面があるのは認める。「何が何でも勝つ!」という、極めて戦闘意欲に満ちあふれた状態にある。自分もそうだ。しかし、それは、あくまでもスタジアムで試合に臨んだときに限られた話である。

ラグビーの試合が終わったらノーサイド、つまり敵も味方もありませんよ……の精神が好きだが、サッカーにはなかなか適さないようだ。ルーツや形態は近くとも、かなり性質の異なるスポーツになってしまったのだろう。

それでもなおノーサイドの精神にはこだわりたい。あえてこれをサッカーに当てはめるならば、勝者は「心から喜ぶと同時に、つぎの試合でも選手の健闘を祈る」であり、敗者の場合は「悔しいが甘んじてその現実を受け入れ、つぎの試合へ向けてなるべく早く気持ちを切り替える」ように努めるべきだと思う。加えて大事なのは、「勝者は敗者へのいたわりをほんの少しばかり持ち、敗者は悔しさをなんとか理性でこらえる努力を」ということか。

「聖人君子じゃあるめーし、そんなワケにいくかい」
「そんなんじゃサッカーをおいしく楽しむための牙を抜かれたようなもの」

そんな腹立たしい気分になる方も多いにちがいない。しかし、感情がエスカレートして何かの事件や問題が発生した場合、それがたった一人の行為であろうとも、必ずその後で当該クラブに制裁が下されるか、あるいはスタジアムでの観戦に際して何らかの規制や管理強化策が施される。要は結果的に僕たちや僕たちが応援するクラブが厄介なことになる、ということだ。

繰り返しになるが、サッカーは戦争ではない。人によって程度の差こそあれ、あくまでも娯楽であり、同時に生き甲斐でもある。そんな個人的な愉しみをくだらないことが原因で制約など受けたくない。なるべく自由な感覚で観戦し、応援したい。

大多数の人たちが「安全で快適な」サッカー観戦を望んでいるのだ。だから理由はどうあれ喧嘩や、まして暴力沙汰などはもってのほか。敵だろうが味方だろうが絶対に許してはならないし、食い止めなくてはならない。